人間は考える葦である・・・って言った人がいたっけ・・・
でも、考えるって、どういうことなんだろう?
考えるには言語が必要。
それじゃ、言葉が片言しか言えない人は、
考えてないってことになる?
あぁ・・・そういうことにされちゃう世の中かもしれない。
アメリカに行ったとき、
私が英語が不自由だと知ってあからさまな差別的嘲笑をした人がいたっけ・・・
黒人でものすごく大きな男性、怖かったのと、腹立たしかったのと・・・。
話せないってすごいハンディなんだなとあらためて思った瞬間。
差別を見た瞬間。
知的な機能が充分じゃなく生まれて大人になった人と接していると・・・
“考える”ってどういうことなんだろうなぁ・・・と思う。
そして、『“人間は”考える葦』ってさ・・・
人間の定義と考えるの定義を明確にしてもらわないと
意味がわかるようでよくわからないやね・・・
なんとなく驕った物言いで、私は好まないんだけど。
知的な障碍がある人は
私がアメリカで一瞬感じたような怒りを、
社会に出てから今まで何度も感じてきたのかもしれないなぁ・・・
そうと思うと、
なんだか人間に生まれたことにがっかりすることも・・・。
単語しか出てこないとまともに話もできないけれど、
一体何を感じているのか・・・
表に出ないってことが、空っぽってことでもない。
だって、学習はするし、結構、生きる知恵があるわけですよ・・・。
“その人それぞれに感じてきた社会”で生きる知恵がね・・・。
“その人それぞれに感じる社会”は、
すぐ隣で接している私たちがつくっているんだけれど。
つくづく思う・・・
頭の機能にハンディのある人は、
人間として真摯に向き合う人に囲まれて暮らさなくては・・・。
(大人に比べて知的にハンディのある子どもも同じこと。)
人として学ぶべきことは毎日の生活の中にこそあるなと
つくづく思う今日このごろ・・・
与えられた生を“ちゃんと生きる”って意外に大変。
ハンディを持つ人は、それを教えてくれる良い先生。